キケロ『友情について』(岩波文庫)

 思春期の青年少女の悩みの多くが友人に関わる問題だ。上手に友人と付き合うことが出来ないと悩む時期だ。だが、これは何も思春期のみの問題ではない。人間は死ぬまで人間関係の問題を抱え続けて生きていく。

 友情とは何か。

 そうした問いに正面から向き合って考察しているのが、キケロの『友情について』だ。キケロは古代ローマでの政治家であり哲学者であった。カエサルの政敵として知られ、共和制ローマを死守しようとした政治家だ。また、彼は雄弁家としても知られ、西洋の多くの政治家がキケロの雄渾な弁論術に学んできた。

 キケロの友情論は理念的であると同時に具体的でもある。彼は対話篇を通じて友情についての考察を深めていく。

 対話篇で若者たちの問いに答えて語るのはラエリウス。彼はローマの偉大な政治家スキピオの親友だった。対話篇は、スキピオが他界し、親友を失ったラエリウスに若者たちが友情についてを尋ねる形で展開していく。

 ラエリウスに従えば、友情の持つ最大の美点は「良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする」ことだという。

 では、そうした友情は如何に育まれるのだろうか。

 我々は結論を急ぎたくなるのだが、結論を下す前にラエリウスの厳しい指摘を閑却することは出来ない。それは友情は秀れた人々の中にしか存在しないという指摘である。 何故、友情は秀れた人々の中にしか存在しないのだろうか。

 ラエリウスに従えば、我々が友人を探すとき、それは自分の「似姿」を探している。この「似姿」という言葉が指すのは、容姿、階級、貧富等々ではない。それは人間の「徳」というものだ。

 ギリシア、ローマの哲学者たちは、人間における徳を重視してきた。

 人間が「ただ生きる」のではなく、「善く生きる」ために必要な観念こそが徳だ。従って、徳の高い人間は徳の高い人間を求めることが出来るが、徳を無視して生きるような人間には、同様の人間しか求められない。それ故に、秀れた徳を持つ人間にしか、秀でた徳を持つ人間との間の友情は成立しえないということだ。

 従って、盗賊の間で成立するかのような友情については、友情の名に値しないことになる。

 ラエリウスは云う。

「友人には立派なことを求むべし、友人のためには立派なことをなすべし。頼まれるまで待つべからず、常に率先し、逡巡あるべからず。敢然と忠告を与えて怯むことなかれ。善き説得をなす友人の感化を友情における最高の価値とすべし」

 友人とは、自らが秀れた徳を有するときに得られる貴重な存在である。従って、秀れた、素晴らしい人物との間で友情を生じされるためには、絶え間のない自己研鑽が必要となる。自己を磨くことが友を得る唯一の道なのだ。

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