複数の政治的指導者について一人の人間が取り上げて論ずることは、想像以上に難しい知的営みだ。全くの価値中立的な教科書的な指導者論では読むに値しない。読者に読ませる際に必要なのが、著者自身の指導者を見る眼である。指導者のどこに注目し、如何に解釈するのかが決定的に重要となってくる。対象に関する評価を通じて、著者自身の見識が試されているといっても過言ではない。
本書を一読して感じたのは、著者の対象を見る眼の温かさであり、鋭さであった。本書で論じられる指導者は、中曽根康弘、吉田茂、東条英機、近衛文麿、浜口雄幸、昭和天皇、そして宇垣一成である。
それぞれ興味深い叙述があるが、ここでは二つだけ取り上げよう。
中国側への密使を派遣しようとした際、近衛文麿は友人に推挙された人物を選ぼうとした。だが、近衛はこの人物とは一度も会ったことがなかったという。会ったこともない人間に国家の大事を託そうとする近衛の姿勢に、著者は驚きを隠さない。近衛という指導者を論ずる際に、いくつもの逸話があるだろうが、敢えてこの逸話を紹介するところに著者の人間を見る眼の確かさを感じるのだ。指導者としてあまりに無責任だった近衛という人物の人間性の一端をこの逸話は見事に物語っているのである。
また、浜口雄幸の金解禁政策に関する評価も興味深い。金解禁政策はその後の展開を知っている我々にとって愚策以外の何物でもない。政治が「結果責任」であり、彼らの判断が誤っていたことを認めながらも著者は次のように続ける。
「ただ私は、彼らが明確な意志と覚悟とをもって、愚直なほどの正攻法で金解禁を実施したことに、ある種の感動を覚える。…(略)…彼らは判断と処方箋を間違った。ただし、彼らは、それが間違いであるとするならば、その責任が自分たちのものであることを明確にしていた」(147頁)
神ならぬ人間は時に判断を過つ。しかし、過ちながらも卑劣ではなく剛毅であることは人間として立派なことだ。歴史学者として多くの指導者たちを分析し、現実においても多くの人々を眺めてきたであろう著者の老成円熟した分析こそが本書の醍醐味である。
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