マイケル・オークショット『歴史について、およびその他のエッセイ』(ソキエタス叢書)

 『政治における合理主義』の著者として知られるオークショットは、保守主義者の一人として数えられることが多い。たしかに、『政治における合理主義』に収められた「保守的であること」を一読すれば、オークショットが保守的な気質の持主であることは明らかであろう。しかし、保守的な気質の持主であることは、必ずしも保守主義者であることを意味してはいない。言葉遊びのように思われるかもしれないが、これは単なる言葉遊びではない。卑近な例だが、保守的な気質の人びとは、日本国憲法をそのまま維持しようとするかもしれないが、保守主義者は断固としてそうした主張に異議を唱えるであろう。現状を現状として受け止めるという保守的な気質は、時に保守主義とは鋭く対立する。本書は、保守的な気質を持った哲学者オークショットの歴史論である。その歴史論に「保守主義」を見出そうとする読者は失望することになるであろう。

 何のために歴史を学ぶのかー。

 真剣に歴史と向き合おうとした人ならば、誰もが問いかけるはずの問いである。

 多くの人々は、歴史の中に何らかの教訓や指針を見出そうとする。歴史上の英雄に指導力を学ぼうとする歴史研究もあるだろうし、歴史の中から何らかの因果関係を見出し、現在における判断の糧にしたいと願う歴史研究もあり得るだろう。

 だが、オークショットは、歴史から現代に生きる教訓を見出そうとする営みを、歴史家の営みとしては認めない。こうした「実用的ないし有用な過去」について、次のように批判している。

 「それは偉業ではなく象徴のコレクションであり、いまだー理解されーない残存物の真性な性格の批判的探究という手続きのなかで喚起されるのではなく、もっぱら判りやすいイメージとして呼び戻され、また残存物から推論できる歴史的に理解された過去のゆえに評価されるのではなく、その現在の有用性のゆえに課価される」(五八頁)

 オークショットに従えば、過去を過去として見つめる、捉えることのみが重要なのである。

 従って、オークショットは歴史を普遍的な法則に当てはめて理解しようとする人々に対しても批判的である。

 歴史の中に「因果関係」を求める人々は、歴史それ自身を捉えようとするのではない。彼らは「法則」として定式化が可能な抽象的概念群を考案し、歴史の中に定式化可能なモデルを見出そうとする。しかし、それは歴史それ自身ではないのである。

 歴史的探究とは、何らかの実用的な目的に導かれて為されるものでもなければ、普遍的な法則を証明するために為されるものでもない。過去からの残存物自体から、生き延びなかった状況、歴史的出来事を推論する試みなのである。

 歴史家の営みについてオーク ショットは次のように指摘している。「歴史家にあるのは彼自身が作り上げた型であり、風に吹かれてかき消されてはまた聞こえてくる、そしてお互いに触れあっては修正しあう不明瞭な木霊の方により相似したものなのである。つまり彼が構成するものは、こぎれいに設けられた確固とした構造というよりも、(風によってかき消されるであろう) 旋律の方により類似した何かなのである」(一三二頁)

 オークショットの指摘は、歴史の探求という営み自体を理解する上で興味深い指摘だといってよい。しかしながら、本書を読みながら、不満を感じたのも事実である。オークショットが「実用的歴史」として否定する種類の歴史から、我々は自由であることが可能なのだろうか。近代国民国家に住む我々には、善くも悪くも「我々の歴史」が纏わりついているのではないか。我々はオークショットが語らなかった、「政治」と「歴史」との関わりについてより考察を深めるべきであろう。

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