ドラッカー『経済人の終わり』(ダイヤモンド社)

 マネジメント学者として著名なドラッカーは、政治学者として活動を始めた。「自由」を守る反全体主義の論陣を張り、ナチスや共産主義を正面から批判していたのだ。政治学者ドラッカーの主著が本書である。本書を一読した英国の首相チャーチルは、『タイムス』に書評を寄せ、本書を絶賛した。

 本書は何故、多くの人々がファシズムに魅せられていくのかを分析したものである。 資本主義体制の下で人々は物質的に豊かになった。だが、経済的な豊かさを実現する一方で、人々の自由と平等は実現されなかった。こうした資本主義の歪みを正す思想としてマルクス主義が登場したが、マルクス主義は資本主義の歪みを正すことが出来ないばかりではなく、新たな全体主義国家を出現させてしまった。

 ドラッカーは、資本主義、マルクス主義における理念的な人物像が「経済人」であることに着目する。すなわち、経済的に豊かになることを唯一の目的とする人間像だ。経済的に豊かになることが、人々の自由、平等をもたらすことになるというのが、資本主義、マルクス主義に共通する「約束」であったという。だが、この約束は実現されることがなかった。人々は経済的に豊かになりながらも、資本主義、マルクス主義に失望していた。

 「経済人」は、我々の理念と呼ぶべき人間像ではないのではないか。そうした疑念がわき起こってきたのだ。

 ドラッカーは指摘する。

「個人の経済的自由が、自動的あるいは弁証法的に自由と平等とをもたらすわけではないことが明らかになったために、ブルジョワ資本主義とマルクス社会主義の双方の基盤となってきた人間の本性についての概念、「経済人」の概念が崩れた」

 それでは、この「経済人」に替わりうる人物像とは何か。

 ファシズムは、それを「英雄人」と規定した。すなわち、共同体のために自己を犠牲に出来る人間を理想像としたのだ。

 確かに自己犠牲の精神は尊い。それを否定する人間はいないだろう。

 だが、自己犠牲を至上とする人間たちからなる社会とはいかなる社会なのだろうか。 

 ドラッカーは、それは無秩序以外の何ものでもないと喝破する。自己犠牲の場を求めて闘争をよしとする社会では、秩序よりも無秩序が相応しいというのだ。

 ナチズム、ファシズムの指導者たちの主張は現実的には出鱈目な主張ばかりだ。パンの値段を下げるといいながら、小麦の値段を上げるという。彼らは不可能であることを知らないわけではない。秩序を否定し、混乱と無秩序、そして闘争を求めているのだ。「経済人」に代わりうる人間像。我々は未だそうした人間像を発見していない。

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