ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』(みすず書房)

 1939年8月23日、世界の人々は驚愕した。水と油の関係にあると思われていたヒトラー率いるドイツとスターリン率いるソ連が不可侵条約を締結したからだ。不可侵条約には秘密条項が存在しており、二人の独裁者は実に独善的にポーランドの分割を決定した。独ソ両国に挟撃されたポーランドはひとたまりもなく、ポーランドという国家は地球上から消滅してしまった。

 独ソ両国は、二度とポーランドが立ち上がることの出来ぬように卑劣な虐殺を行った。ドイツは知識人に狙いを定め、大学教授をはじめとする多くの知識人を過酷な強制労働に従事させ、時には直接殺戮した。ソ連はポーランドの指導者、およびその家族を含む40万人をソ連の僻地へと強制移住させた。その多くは酷寒と栄養失調で死亡した。事実上の殺戮であった。

 また、ソ連は直接将校を虐殺した。

 秘密警察長官ベリヤはスターリンに対して、収容したポーランド人将校2万人の虐殺を提案し、スターリンがこれを承認した。虐殺はカチンの森で実行されたため、これを「カチンの森虐殺」と呼ぶ。ソ連軍の特殊部隊によるこの虐殺はドイツ製の銃によって執行された。

 さて、二人の独裁者の蜜月関係は長くは続かなかった。周知のようにドイツはソ連に侵攻した。

 ドイツ兵たちはカチンの森の虐殺を発見し、これを許すべからざるソ連軍による蛮行だと宣伝した。彼らは専門家による調査団を派遣し、これが間違いなくソ連軍の為した蛮行であると結論付けた。しかし、ソ連はそうしたドイツの発表をプロパガンダだとして否定した。

 戦後、ソ連は新たに専門家をカチンの森に派遣し、調査を行い、この虐殺はナチス・ドイツの仕業であると発表した。罪をドイツになすりつけようというスターリンの陰謀であった。

 ポーランド人の多くは事実を知りながらも、ソ連体制下にあったために事実をはぴょう出来なかった。自由主義諸国もソ連との国際協調を優先して、事実を隠蔽するように工作し続けた。カチンの森の殺戮者がナチスであるとのソ連の公式発表を首肯しない学者は保守反動のレッテルを貼られることになった。

 真実が明らかになったのは、ソ連が崩壊した瞬間だった。ソ連の指導者たちは、従来、真実を知りながら、証拠を隠蔽し、ときには抹消すらしてきた。気付かなかったのではない。彼らは真実を知りながら、嘘を発表し続けたのだ。

 ソ連が崩壊し、ベリヤが提案し、スターリンが承認したカチンの森虐殺に関する書類が公開されたのだ。

 歴史は時に権力者によって恣意的に改竄される。そうであるが故に、歴史の真実を探求する知的な営みが重要になってくる。声なき声に耳を傾け、権力者の歴史改竄、隠蔽を暴き、真実を追求する。歴史家の営みには、知性だけでなく勇気も求められるのだ。

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